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2006年5月27日 (土)

詩は心の闇を照らし世界を変える

      メンドオーヨ氏は警鐘を鳴らす

     ■これはモンゴルの日刊紙『今日のモンゴル』2006.4.27日付に掲載されました。

                              「近況報告」参照     

                                       三田 洋

言語の深遠さや神秘性が軽視され、一つのツールのようにしか認識されない、そんな日本の風潮に警鐘を鳴らす講演に遭遇した。昨年の11月、東京のホテルで行われたアジア環太平洋詩人会議でのことである。

会議のメインテーマ「自然と生命の声を世界に」の基調講演には日本、韓国、中国、台湾、モンゴルの詩人たちが登場した。それぞれ母国の詩の状況や問題点などを提示し興味をひいたが、私が最も感銘を受けたのはモンゴルのメンドオーヨ氏の「詩は地球の光」という講演で、詩や言語への畏敬の念や信頼に充ちていた。言語が本来包容している深遠なエネルギ―や奥行きがモンゴルの風土に息づいていることを氏は熱っぽく語った。元時代の政治家の多くは詩の書き手であったこと、シャマンにも詩が重要な役割を果たしていることなど実例をあげ、詩と社会との深い結びつきを紹介した。後日、氏から知らされたのだが、詩の朗読会は大ホールで催されテレビ中継されるほど活況を呈しているという。詩をめぐる状況の日本との落差に衝撃をうけた。

さらに特筆すべきは言霊信仰が依然として風土と暮らしに息づいていることであった。詩を読み空に捧げながらの雨乞いの成功例などをあげ、詩のもつエネルギーや潜在力は大自然をも揺り動かし新しい世界を創造すると氏は訴えた。

モンゴルでは善い言葉の先には油(善いこと)、悪い言葉の先には血(悪いこと)という諺があるという。それはかつての日本に息づいていた「倭の国は言霊のたすくる国ぞ」(柿本人麻呂)の言霊信仰が今も健在であることを示している。

言語の深遠なる奥行き・神秘的エネルギーが現在も息づいているからこそ、詩や詩人は畏敬の念を受け風土に根づいている。それは文明・情報まみれの中で詩を営む私たちに鋭い警鐘のように響くのだった。

メンドオーヨ氏は講演をこう結んだ。心の底から湧出した言葉は人間や社会に光を与える。詩は偉大な力を秘めている。詩は心の闇を照らし清め、国境を越え人類の幸福と平和のために必ず役立つはずだ。

講演を契機に氏と私の交流は続いている。

       

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2006年5月 9日 (火)

夢・無意識・詩について

 夢を見ない人がいるらしい。不思議でしかたがない。わたしなどは見ない夜は一日も
ないくらいだ。専門家によると、見ない人もじつはきちんと見ていて覚醒時には忘れてい
るのだともいう。
 わたしの夢はだいたい歩いている場面が多い。どこかに行こうとしているのだが、はっ
きりしない。 いや正確にいえば「行こう」としているのではなく、「どこかにしきりに帰ろう
と」しているようである。どこへ帰るのか、自分の家のようでもあり、そうでもなさそうでも
ある。周囲には少し人はいて、知らない人が多いが知っている人もいたりする。あたりは
茫洋としていて寂しさが霧のように降っている。その孤独感はどこからくるのか分からな
い。歩いているときはいつも無性に寂しいのである。そういう夢ばかり見ている。目覚め
てもそれはずっと続いていく。
 夢には知らない人は現れないというのはたぶん誤りだ。夢には色彩がないというのも
偽りである。何というきれいな色だろうと思いながら見ていることもある。 わたしにとって
色のない夢はない。
 登場人物は見る間に変形していく場合も多い。 知人だと思っていると、全然違う人物
になっている。女が男になったり、例えば父親が下半身馬のようになってしまった夢も
った。 腕だけが恐ろしく肥大していたり、ある部位だけが長かったり、シュールリア
リズム絵画のような場面も多い。
 この二日間、気になる女性が出てきた。脚が妙に細いやや背の高いひとである。
夕べのひとはベージュ色のハーフコートを着て、スラックスの細い脚をみせ、小さな広
場のようなところに何となく立っていた。決してこちらを見ることもなく左方を向いてい
て、まもなくそちらの方へ行ってしまった。(左か右かにも何かありそうだ)。年の頃三
十代くらいに見えた。一昨日も同じような人物が出てきたが、同一人物ではなかったよ
うだ。こちらを意識していない点は変わらない。これは何かを暗示しているのだろう、き
っと。
 夢は潜在意識の具現だともいう。何かを暗示するともいう。でも陳腐な夢もたくさん見
る。前夜のテレビに出てきたタレントだとか俳優だとかが、わたしと話をしていたりする。
思わずあとで笑ってしまう。
 意識は膨大な無意識のほんの一部なのだと思う。「意識界」が部屋程度の広さだとす
ると「無意識界」は都市全体の、あるいは日本国くらいの広さかも知れない。いやそんな
程度ではなく、地球へ宇宙へまで広がっていくのではないかとわたしは思っている。
 わたしたちがさまざまな行動や決断を下すとき、それを意識して選択しているようでも、
実は広大な無意識界に左右されていたりする、無意識界に行動を選択されているので
はないかと思っている。それほど無意識界はわたしたちにとって重要な世界だ。
 それは詩や芸術との関連でも「核」のような役割を果たしていると思う。詩や芸術作品
のほんとうの評価や感動は無意識界での作者と鑑賞者との触れあいの度合いによるも
のではないのかと思う。例えば作品を前にして、その意味内容はあまり分からないが、
何だか底知れぬ感動を受ける場合がある。それは無意識界深く作者と鑑賞者が触れあ
うことができていることではないか。優れた作品とは作者と鑑賞者とがどれだけ無意識
界深くで触れあうことができるかどうか。 その触れあいの度合いで評価されるのだろう
と、わたしはずっと思いこんでいる。そんな感動や評価は持続し変わることがない。
 そのように重要な世界でありながら、わたしたちは無意識界のことなどあまり考えるこ
となく暮らしている。しかし、大事なことは懸命に生きること、思うこと、感じること、それ
がそのまま無意識界に触れあうことだと思っている。その日常の集積こそ、狭い意識界
を広大な無意識界へと広げていく。それがわたしたちの感性や認識を深めていき、わた
したちを豊かに深く彩っていくのだと。
 夢もまたそこへ通じる一つの入り口でなのかも知れない。日々の夢を反芻してみる。
意味は分からなくても、あるがままにきちんと受けとめておくこと。それが無意識界との
触れあいをひろげ、深めていくことになるのではないだろうか。 
                                  (三田洋サイト「砂の華」より)

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